「ふっと心がかるくなる 禅の言葉」を読む
さて、今回は、禅語です。
禅語には、人生の指針となるような言葉が、沢山あります。
例えば、「主人公」
「主人公」って、禅語なんですよ。あ、知ってました?
昔、瑞巌(ずいがん)寺の師彦(しげん)和尚は、毎日自分で自分に、
「おーい主人公、師彦和尚よ!」と呼び掛けて、「はい!」と返事をし、
「しっかりと目を覚まして本来の面目を保っているか?人をだましたりだまされたり
しないよう真実のおのれの状態でいるか?」「はいはい!」と
自問自答していたそうです。
禅でいう「主人公」とは、「本来の面目」つまり、「純粋な自分」です。
あらゆる宗教が、目指すところは、どのようにして、この「純粋な自分」になるか?
という一点に尽きると言っても、過言ではありません。
禅語も又、その点で、一貫しています。
続いて紹介する「無功徳」という言葉は、禅の始祖である達磨が、梁(りょう)の武帝に
呼ばれ、「私は寺を建て、僧を養成した。どのような功徳が得られますか?」と
聞かれた際、即、「無功徳!」
と言った時の言葉です。
寺を建て、僧を養成したからには、それ相応の功徳があると思います。しかし、
功徳を目的に、寺を建てるのでは、本末が転倒している。
達磨は、そこを指摘したのです。
よく、目的が手段化する人がいます。
勉強が好きだったはずなのに、いつの間にか、受験の手段になっている。
受験は、就職の手段になっている。就職は、お金儲けの手段になっている。
そういう人が、ただ、「今していること」を目的にして、没頭した時に、
生きがいを取り戻せることがあります。
「自分」を「過去」でも「未来」でもない。「今」に取り戻す作業を、
禅語で、してみませんか?