谷口雅春著 「無門関解釈」 第十七則を読む
さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、
今回は、第十七則です。
本文の後にわかりやすい解釈文があります。
本文は難解なので、とばして読んでもOKです。
では、
第十七則 「国師三喚(こくしさんかん)」
国師三たび侍者(じしゃ)を喚(よ)ぶ。侍者三たび應(おう)ず。国師いわく、
まさに謂(おも)えり、吾(わ)れ汝に辜負(こふ)すと。元来かえって
是(こ)れ汝吾れに辜負す。
<解釈文>
国師と言うのは南陽(なんよう)の慧忠(えちゅう)国師である。
法を六祖慧能禅師(えのうぜんじ)に継承した人で、
六祖門下中靑原(せいげん)、南嶽(なんがく)両禅師につぐ神足(しんそく)、
大證国師(だいしょうこくし)である。大證国師が侍者を喚んだ。
何のために喚んだのか文章の中には書かれていないが、国師が侍者を
試みるために侍者の名を喚んだのならば、国師の方に喚び声に迫力がない。
実際に用事がないのだから、侍者の應答(おうとう)も声だけの返事であって、
身の行動となって現れない。声だけの返事であって身体(からだ)が
動かないから、二(ふた)たび喚ばなければならない。二たび喚んでも、
やはり試みに喚んで見るだけであるならば、やはり侍者の身を動かすだけの
迫力がないから、矢張り侍者の身は動かない。そこで三たび侍者の名を
喚ばなければならぬ。三たび喚んでも七たび喚んでも試みに喚ぶのでは
やはり侍者の身を動かす迫力はない。童路傍(わらべろぼう)に座して
笛吹けど衆人踊らずである。とうとう三たび喚んでも侍者は返事ばかりで
身体を動かさないから、国師は「わしがお前に辜(つみ)を負(お)うているか
と思ったら、お前の方がわしに辜を負うていたのだ」と嘆(たん)じたのである。
すなわち「立ち向かう人の心は鏡であるから、相手が返事をするだけで
身体を動かさないのは、わしが悪いのだと思っていたが、実はお前の
方が悪かったのだ」と国師は嘆じたのである。しかし「実はお前の方が
悪かったのだ」と言うのは大證国師としてはあまり賞(ほ)めた言葉ではない。
間の抜けた権威の無い語(ことば)で侍者を呼ぶものだから、侍者の方でも、
ハイ、ハイ、ハイと「侍者の三應(さんおう)は光を和(やわら)げて返事を
吐出(としゅつ)」したのである。
あまり年老いたので、自分の法の跡継ぎでも早く欲しいのであろう、
あまりにも侍者を早く悟らしめたいと思って、牛の頭(こうべ)を無理に
押し付けて草のところへ持って行き、草をあてがおうとする趣(おもむ)きが
ある。牛は草を食う本性をもっているのであるから、そんな強制的なことを
しなかったら却(かえ)って草を食うのである。人間でも同じことである。
お前はそのままでは駄目だろうと、牛の頭を草の中へ押し付ける底(てい)の
教育の仕方をしていたのでは却って善くなりっこはないのである。
「お前は必ず悟るのだ」と信じてその本性にまかせて置いたら却って悟るのである。
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いかがでしたでしょうか?「試みる」では、実際に及ぼす迫力がありません。
「信じることは実現する」のですが、現在意識は勿論のこと、潜在意識の
奥の奥から信じなければ、物事は、望むとおりに変化しないのです。