8まってる

私が、今、ハマっているものを、紹介いたします。

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十九則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十九則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、とばして読んでもOKです。

では、

第十九則 「平常是道(へいじょうこれどう)」

南泉(なんせん)ちなみに趙州(じょうしゅう)問う、如何(いか)なるか是れ道(どう)。

泉いわく、平常心是れ道。州いわく、還(かえ)って趣向(しゅこう)すべきや否(いな)や。

泉いわく、向(むか)わんと擬(ぎ)すればすなわち乖(そむ)く。

擬せずんばいかでか是れ道なることを知らん。泉いわく、

道は知にも属せず不知にも属せず、知は是れ妄覚(もうかく)、

不知は是れ無記(むき)。もし真に不疑(ふぎ)の道に達せば、なお大虚(たいきょ)の

廓然(かくねん)として洞豁(とうかつ)なるが如(ごと)し。豈(あ)に強(し)いて

是非(ぜひ)すべけんや。州、言下(ごんか)において頓悟(とんご)す。

<解釈文>

『無門関』第七則、趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)のところに

「御飯を喫(た)べたら茶碗を洗え」とあたり前の行事の中(うち)に道(みち)が

あることを説いているその趙州である。その趙州がまだ悟らないで

南泉和尚の膝下(しっか)に参(さん)じて道を求めていた時の出来事である。

「如何なるか是れ道」 ー 道(みち)とはどんなものですか - と言って

趙州は南泉に聞いたのである。すると、「平常心是れ道」と南泉は答えた。

道は遠きにあるかと思ったら、平常の心「そのままの心」の中(なか)にあるのである。

高座(こうざ)にのぼって滔々(とうとう)と道を説いても、脱いだ下駄が

撥(は)ね飛んでいるようなことでは道ではない。日常生活、坐作進退(ざさしんたい)、

一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)そこにおのずからなる律(りつ)が

あらわれなければならぬ。「道」は眼に見えず、宇宙に満ちていて、

處(ところ)を得たる中に姿をあらわすのである。柔「道」と言い、剣「道」と言い、

茶「道」と言い、華「道」と言い、書「道」と言い、医「道」と言い、政「道」と言い

 ー すべてのもの處を得る極致において「道」を其処(そこ)に姿をあらわすので

ある。處を得ないときには「道」は未(いま)だしである。

 ところが、「平常そのままの心が道だ」と師の南泉に言われた趙州は

「還って趣向すべきや否や」と問い返した。「先生のおっしゃるには、

平常そのままの心が道であるべきだと言われますけれども、心をめぐらして

その道に乖かないように趣向を凝(こ)らすべきではありますまいか。」

 すると南泉は「向わんと擬すればすなわち乖く」と答えた。

「道と言うものは何々の方向に向かっているものだから、道は一定の形が

あるべきであるからとて、特に趣向をこらしてその方向に向かおうと、

身構えすれば却(かえ)って道に乖く」と言ったのである。

老子も「道の道とすべきは常道にあらず、名の名とすべきは常名(じょうめい)

にあらず」と言った。道は一定の身構えに堕(だ)したときに、それが

洞然貫道自在(とうぜんかんどうじざい)の「道」から却って乖いたことに

なるのである。宮本武蔵の『五輪書』に「いずれの構えなりともかまうると

思わず、きる事なりと思うべし」とあり、また「有構(うがまえ)

無構(むがまえ)の教えの事」として、「有構無構というは、元来太刀を

構うるという事有るべき事に非(あら)ず。され共(ども)、五方(ごほう)に

置く事あれば構えともなるべし、太刀は敵の縁により、所により、

形氣(けいき)にしたがい何(いず)れの方に置きたりとも、その敵の

きりよき様に持つ心なり……」とあり、また「他流に太刀の構えを

用(もち)うる事」と題して、「太刀の構えを専(もっぱ)らにする

所ひが事也。世の中に構えのあらん事は、敵のなき時の事なるべし。

……城をかまうる、あるいは陣をかまうるなどは人にしかけられても

つよく動かぬ心、是れ常の儀也。兵法勝負の道においては、何事も先手先手と

心掛くる事なり。かまうるという心は、先手を待つ心也。よくよく工夫有るべし」

とある。ここに言う構うる心とは「向かわんと擬する心」であるから却って

道に乖くことになるのである。元来「道」と言うものは流動しているものであって、

そのまま対境を支配するように、随所に主となり得るように流動したとき「道」と

倶(とも)に動くことになるのであるが、「道」を一定の「形」と思い、

剣道の構えを一定の形と思い込み、道と共に流動し得なくなったとき、

剣道においては敵にやぶれ、商道においては失敗して産を倒し、医道においては

診断正確にして却って患者を殺す等の愚を演ずるに至るのである。

医道は診断にとらわれず、物質的学校教授の治療術のみにとらわれず、

患者に対しては、活殺自在臨機応変(かっさつじざいりんきおうへん)の処置を

とるべきである。無構の構えがおのずから「平常の心」となりて、

「心の欲する處を行うて」矩(のり)を越えざる底の大自在の境地に達すべきで

あって、「道とはこんなものぢゃ」と形を捉(とら)えたとき、その捉えられた

「道」なるものはすでに変貌(へんぼう)して「道」でなくなっているのである。

 こう南泉から教えられたが、その頃の趙州にはまだ南泉の説く意味が本当には

わからないのである。そこで趙州は「擬せずんばいかでか是れ道なることを知らん」

と問うた。趙州の言う意味は、「道と言うものはこういうものだと一定の

方向を指し示し、その方向へ向く構えが出来なかったならば、道の道たることが

どうしてわかりましょうぞ」と言うのである。すると南泉は「道は知にも属せず

不知にも属せず」と言って答えた。

 道は無形である。吾々が一切の我を裁断(せつだん)して無形に成り切ったときに、

その平常心に道があらわれているのである。平常心と言えばとて、

そのままの日常生活と言う「形」の日常生活と「道」だと思ってしまったら

また却って「道」に乖く。「道」は知に属せずであって、知覚をもって

道を知ろうとしても「道」は知覚し得るものではない。では知覚し得ないものが

道であるかと言って「道なんて生活にあらわれる必要はない」と思ってしまえば

却って「道」に乖くのである。そこで「道」は知に属すると言っても不知に

属すると言っても、どちらも本当ではないのである。だから南泉は

「道は知にも属せず、不知にも属せず」と言ったのである。

真の大道は、知不知を二つながら超越して、そのまま此処(ここ)に、

朝起きて顔を洗うところに、掃除をするところに、飯を食うところに、

茶碗を洗うところに、生け花に、茶道に、割烹に、洗濯に、いたる所にあるのである。

すべてそれが引っかかる所なく、おのずからなる律を顕(あら)わすのが(不疑の道)

である。甲論乙駁是非(こうろんおつぱくぜひ)の議論を戦わして見ても

そこに大道を見出し得べきものではない。この

「不疑の道に達せば、なお大虚がカラリとしてスミキリなるが如(ごと)く」生活

そのままが透明に澄み切って道となるのであると南泉和尚が言われたときに、

趙州は言下に、 なるほど とにわかに悟った。

それ以来、真理受用不盡(しんりじゅようふじん)、この「平常心是道」の説法は

幾多の人々を救ったのである。 - 

いかがでしたでしょうか?説明は不要と感じます。

「引っかからないこと、引っかからないという事にも引っかからないこと」

「捉われない、捉われないという事にも、捉われないこと」

執着が無ければ、全てが清らかなのです。

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十八則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十八則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、とばして読んでも大丈夫です。

では、

第十八則 「洞山三斤(とうざんさんぎん)」

洞山和尚、ちなみに僧問う、如何(いか)なるか是(こ)れ佛。

山いわく、麻三斤(まさんぎん)。

<解釈文>

この公案は『碧巌録(へきがんろく)』の第十二則にも出ている。

さて洞山和尚にある僧が「佛とは如何なるものであるか」と

聞いたのである。すると、洞山は手近にあった麻の実三斤を

指さして、「これが佛だ」と言ったと言うのである。

洞山の師である雲門和尚は、「如何なるか佛」と問われると、

「乾屎橛(かんしけつ)」と答えた。

乾屎橛とは「くそかき箆(べら)」のことである。

紙の得られない九州の片田舎へ行くと(当時)尻をぬぐうのに

紙の代わりに竹箆で糞をこさげる、あれが乾屎橛である。

「佛って、どんなものだ。」答えて曰く「くそかき箆だ。」

うんこの中にも神がいる。

心の眼を開いて見れば天地間一切の事物ことごとく「佛」ならざるはない。

それには事物の表面の物質相ばかりを見ていては分らぬ。

物質は「生命」を固定面に反射して、その反射像をそのまま

あると錯覚しての相(すがた)であるから「物質あり」と見ている限りは

「くそかき箆」は「くそかき箆」としての値打ちだけしかわからぬ。

それが「佛」だなどとどうしてわかろう。

物質は「生命」を固定面に反映しての映像に過ぎないことを知り、

その「生命」の本質に直接触れることによってのみ、

天地一切のものが「佛」のいのちの顕現であることがわかり、

「神」のいのちの顕現であることがわかり、

天地一切のものに感謝することが出来るようになれるのである。

その境地においては「如何なるか是れ佛?」と問わるれば、

眼の前にあるところの何でもを捉(とら)えて「これが佛だ!」と

一喝し得る。一切が「佛」である。一切が「神」である。

神一元、佛一元の世界観に立って万物を見渡すとき、

一切が佛ならざるはなく、神ならざるはないのである。

洞山は「麻三斤」を指さして「これが佛だ」と言ったが、

「麻三斤」のみが佛であると思ったり、麻三斤の「こと」を

佛であると思ったり、三斤と言う数量に捉えられたりしたのでは

本当のことはわからぬのである。 -

いかがでしたでしょうか?

素朴に、眼の前にあるものが、全て「佛の現成(げんじょう)」と思うことは、

お釈迦様は、これを「常見(じょうけん)」と言って排斥されました。

また、眼の前にあるものが、全て「無」であると思うことも、

お釈迦様は、「断見(だんけん)」と言って排斥されました。

ものの見方は、「常見」にもおちいらず、「断見」にもおちいらない見方。

すなわち、眼の前にあるものは、全て「無」であると悟るのが、

悟りの一半。全て「無」であると「大否定」した後に、全てが「佛の命の現れ」と

「大肯定」するのが、本当の悟りと言います。

「万物は、凡と観れば凡。佛と観れば佛」観る者の主観によって、

観られるものの見方が変わる。

心が変われば、全てが変わります。

 

 

 

 

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十七則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十七則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、とばして読んでもOKです。

では、

第十七則 「国師三喚(こくしさんかん)」

国師三たび侍者(じしゃ)を喚(よ)ぶ。侍者三たび應(おう)ず。国師いわく、

まさに謂(おも)えり、吾(わ)れ汝に辜負(こふ)すと。元来かえって

是(こ)れ汝吾れに辜負す。

<解釈文>

国師と言うのは南陽(なんよう)の慧忠(えちゅう)国師である。

法を六祖慧能禅師(えのうぜんじ)に継承した人で、

六祖門下中靑原(せいげん)、南嶽(なんがく)両禅師につぐ神足(しんそく)、

大證国師(だいしょうこくし)である。大證国師が侍者を喚んだ。

何のためにんだのか文章の中には書かれていないが、国師が侍者を

試みるために侍者の名をんだのならば、国師の方にび声に迫力がない。

実際に用事がないのだから、侍者の應答(おうとう)も声だけの返事であって、

身の行動となって現れない。声だけの返事であって身体(からだ)が

動かないから、二(ふた)たびばなければならない。二たびんでも、

やはり試みにんで見るだけであるならば、やはり侍者の身を動かすだけの

迫力がないから、矢張り侍者の身は動かない。そこで三たび侍者の名を

ばなければならぬ。三たびんでも七たびんでも試みにぶのでは

やはり侍者の身を動かす迫力はない。童路傍(わらべろぼう)に座して

笛吹けど衆人踊らずである。とうとう三たびんでも侍者は返事ばかりで

身体を動かさないから、国師は「わしがお前に辜(つみ)を負(お)うているか

と思ったら、お前の方がわしにを負うていたのだ」と嘆(たん)じたのである。

すなわち「立ち向かう人の心は鏡であるから、相手が返事をするだけで

身体を動かさないのは、わしが悪いのだと思っていたが、実はお前の

方が悪かったのだ」と国師は嘆じたのである。しかし「実はお前の方が

悪かったのだ」と言うのは大證国師としてはあまり賞(ほ)めた言葉ではない。

間の抜けた権威の無い語(ことば)で侍者を呼ぶものだから、侍者の方でも、

ハイ、ハイ、ハイと「侍者の三應(さんおう)は光を和(やわら)げて返事を

吐出(としゅつ)」したのである。

あまり年老いたので、自分の法の跡継ぎでも早く欲しいのであろう、

あまりにも侍者を早く悟らしめたいと思って、牛の頭(こうべ)を無理に

押し付けて草のところへ持って行き、草をあてがおうとする趣(おもむ)きが

ある。牛は草を食う本性をもっているのであるから、そんな強制的なことを

しなかったら却(かえ)って草を食うのである。人間でも同じことである。

お前はそのままでは駄目だろうと、牛の頭を草の中へ押し付ける底(てい)の

教育の仕方をしていたのでは却って善くなりっこはないのである。

「お前は必ず悟るのだ」と信じてその本性にまかせて置いたら却って悟るのである。

 -

いかがでしたでしょうか?「試みる」では、実際に及ぼす迫力がありません。

「信じることは実現する」のですが、現在意識は勿論のこと、潜在意識の

奥の奥から信じなければ、物事は、望むとおりに変化しないのです。

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十六則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十六則です。

解釈文だけにすると、分かりにくい部分もあるので、本文も載せることにします。

さて、

第十六則 「鐘聲七條(しょうせいしちじょう)」

雲門曰く、世界恁麼(せかいいんも)に廣闊(こうかつ)たり。

なんによってか鐘聲裏(しょうせいり)に向かって七條を披(き)る。

<解釈文>

雲門和尚のことは前の第十五則に述べたが、「世界はこんなに広々としている。

それだのに何のために鐘の音がゴーンと鳴ると坊主どもは七條の袈裟(けさ)

を掛けて法堂へ出るのか」と、一語実に人の肺腑(はいふ)を突く概(がい)がある。前則

にも明らかな通り、雲門の一字関と称して、雲門は一語

急所を示す言葉を提示することによってよく後進を悟らしめるに妙を得た。

それと言うのも雲門自身が、初め睦州道蹤禅師(ぼくしゅうどうしゅうぜんじ)に

参じたとき、睦州に、「道(い)え、道(い)え、道(い)わざれば門に入れず」と

三度門から突き出され、三度目に足が門の戸へはさまって足を挫折した

その拍子にハッと大悟したと言う人だけあるので、他の人を悟らしめるにも同様の

筆法を用いる傾向があったものである。今の時代ならば、

「世界は広いのにラッシュ・アワーが来ると何のためにあの狭い電車に

乗ろうとして、狭いところへ鈴なりになっているのであるか」と言う問いと同じ

ことである。 -

いかがでしたでしょうか。「悟りに導く急所を突く」

その一人に、相田みつをさんがいらっしゃると思います。

「アノネ 人間にとって一番大事なものはなにか?

そこを原点として考えてゆけばあとは自然にわかってくるよ」

大事なものは、いつも心の中にあります。

 

 

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十五則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十五則です。

今回から、解釈文だけ載せます。

では、

第十五則 「洞山三頓(とうざんさんとん)」

雲門和尚(うんもんおしょう)は雪峰義存禅師(せっぽうぎぞんぜんじ)に

嗣法(しほう)した人で雲門宗の開祖、雲門山光奉院(うんもんざんこうぶいん)の

文偃禅師(ぶんえんぜんじ)その人である。

洞山は、襄州洞山初宗慧禅師(じょうしゅうとうざんしょそうけいぜんじ)である。

雲門和尚のところへ参じて大悟を開いた人である。

さて、雲門和尚のところへ洞山がやって来た。

雲門「近ごろ、どちらからおいでになりましたか。」

洞山「査渡(さと)におりました。」査渡は地名である。

雲門「夏安居(げあんご)にはどちらで修行なされたかな。」夏安居と言うのは

一夏(いちげ)九十日の修行のことである。

洞山「湖南(こなん)の報慈寺(ほうずじ)で夏(げ)をすごしました。」

雲門「いつあそこをお離れになりました。」

洞山「八月二十五日でございました。」

雲門「馬鹿野郎、貴様に三頓の棒をくらわしてやるところだが、

今日はゆるすから帰れ。」(一頓は二十棒、合計六十棒である。)

あたり前にあたり前の挨拶を正直にやったのであるが、洞山は雲門に

六十棒をくらわすところだと言われて合点が行かぬ。

その日は帰って終日考えたけれども洞山にはどうもわからぬ。

そこで翌日洞山は再び雲門和尚のところへやって来た。そしてたずねた。

「昨日先生に三頓の棒をくらわすところだがゆるすと言われましたが、

その訳がわかりませぬ。どこに私に罪がございますか。」

「こやつ飯袋(めしぶくろ)め!江西湖南(こうせいこなん)の諸禅林(しょぜんりん)で

修行して来たはずの貴様にそれがわからぬか。」

洞山このときはじめて大悟したと言うのである。何を大悟したのであるか。

だいたい雲門三頓の棒は、どう言う挨拶をしたから、その挨拶の仕方に

間違いがあったからと言う理由で棒をくらわせるのではない。

江西湖南色々のところで修行して来たと言うその気負った心に棒を

くらわせるのである。増上慢(ぞうじょうまん)を摧破(さいは)するのである。

洞山が「湖南の報慈寺で八月二十五日までも修行しておったもので

ございます」と答えたのは、青年気鋭の頭の良さで考えていたことに

あたるであろう。問答の言い方が善いの悪いのと言うことではない。

その既(すで)に飽満(ほうまん)したように人間智を一杯つめこんでいる 

増上慢が悪いのだ。 -

いかがでしたでしょうか。増上慢が善くないのは、へりくだった心では

ないからです。せっかくの真理の言葉も、「そんなことは、

全て知っている」という姿勢の人には、なかなか伝わりません。

三頓の棒をくらわしてでも、真理を伝えるという雲門の教えは、

み佛の慈悲に叶っていると思います。

 

 

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十四則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十四則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、とばして読んでも大丈夫です。

では、

第十四則 「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」

南泉和尚、ちなみに東西の両堂、猫兒(みょうじ)を争う。泉すなわち提起(ていき)

していわく、大衆(だいしゅ)、いい得ばすなわち救わん、いい得ずんば

すなわち斬却(ざんきゃく)せん。衆こたうるなし。泉、ついに之(これ)を斬る。

晩に趙州(じょうしゅう)、外(ほか)より帰る。泉、州に擧似(こじ)す。

州すなわち履(くつ)を脱して頭上に安(あん)じて出(い)ず。

泉いわく、なんじもし在(あ)らばすなわち猫兒を救い得(えて)ん。

<解釈文>

南泉和尚とは地陽(ちよう)の南泉普願禅師(なんせんふがんぜんじ)のことで、

馬祖道一禅師(ばそどういつぜんじ)門下の傑物である。趙州和尚は、

この南泉和尚の弟子である。ある時、東西両堂の僧侶が集まって

一匹の猫を囲んで争っている。ちょうどそこへ通りかかったのが南泉和尚である。

東西両堂の僧どもが何を争っていたのかは明瞭でない。猫に佛性ありや否や

と争っていたのだと言う憶測もあるが、それでもよろしい。

ともかく、僧堂が東と西にわかれていたりすると争いを招くもととなるもので

ある。たまたまこの東西両堂の僧侶の感情の衝突が一匹の猫を中心にして

爆発したのである。そこで南泉和尚はその争い爆発の契機であるところの猫を

片手にひっさげて、「お前たちにこの猫がどう見える」と言って両堂の僧侶の

前に突き出した。「衆こたうるなし」とあるから誰も一言も発することが

出来なかったのだ。それはそのはず。同じ一匹の猫でも、見る人の立場に

よって色々のように見える。それが立場の相違である。ある人は猫を見たら、

「こいつは泥棒猫で、うちの台所の魚をいつも盗(と)りよる奴ぢゃ」と

見るかも知れない。またある人は「この猫は三味線の胴革(どうかわ)によい」と

見るかも知れない。またある人は「この猫は愛玩するに適当だ」と見るかも知れない。

ある人は「この猫の三毛(みけ)の毛並みはよい」と見るかも知れない。

背中から見るもの、腹から見るもの、斜めの方面から見るもの、四十度の角度から

見るもの、五十度の角度から見るもの、見る人間の数(すう)だけ各々(おのおの)

見えようが相違するのである。見る人間の数だけ相違するように見えるならば、

その猫の本当の相(すがた) - 本当の猫なるもの - は一体どれが本当であるか、

これはなかなか答えられませぬ。そこで「衆こたうるなし」である。

本当の猫は形ではない。本当の人間は形ではない。形を見ていれば争うほかはない。

腹の方から見た人は「私には猫は足が四本あるように見える。」背中の方から見た人

は「私には猫の足は見えない。」横から猫を見ている人は、「私には脚が前脚と

後脚(あとあし)と一本づつしかないように見える。」すべて争いのもとは

一面観から来るのである。一面観は形を見るから一面しか見えないのである。

一面観を載(た)ち切り、争いのもとを載ち切る為には、形を切って捨てなければ

ならない。そこで南泉和尚は形の猫を斬り捨ててしまったのである。

形に対する一面観を捨てたときに争いは消滅するのである。

晩に、托鉢にいっていた弟子の趙州が帰って来たので、趙州にこのことを

擧似(はな)した。すると趙州何と思ったか、履物を脱いで自分の頭の上に

載せて出て行った。そこで南泉和尚は趙州を賞讃(しょうさん)して

「趙州がもしあの時いたならば、あの猫の兒(こ)を救い得たろうに」と

言ったと言う。 - 

いかがでしたでしょうか?

趙州が、履物を頭に載せて去ったというのは、冠履転倒(かんりてんどう)

『冠(かんむり)と履(はきもの)があべこべ』の意味だそうです。

争いのもとは、「形」にとらわれ、現象をあると思い、その判断に執するから

ですが、それだからと言って、「形」を壊すには及ばない。

「形」に罪を着せて「形」を壊すのが悟りではない。

悟りと言うものは、「形」を自然に成就するようなものでなければ

ならないそうです。

 

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十三則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十三則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、とばして読んでもOKです。

では、

第十三則 「徳山托鉢(とくさんたくはつ)」

徳山一日(とくさんいちじつ)托鉢して堂(どう)に下(くだ)る。雪峰(せっぽう)に、

この老漢(ろうかん)、鐘(かね)いまだ鳴らず、鼓(く)いまだ響かざるに、

托鉢してなんの處(ところ)に向かって去ると問われ、山すなわち方丈(ほうじょう)に

かえる。峰(ほう)、巖頭(がんとう)に擧似(こじ)す。頭いわく、大小の徳山いまだ

末後(まつご)の句をえせず。山聞いて侍者(じしゃ)をして巖頭をよびきたらしめて

曰(いわ)く、汝(なんじ)老僧をうけがわざるか。巖頭密(みつ)にその意をまおす。

山すなわち休(きゅう)し去る。明日陞座(みょうにちしんぞ)、はたして尋常(よのつね)

と同じからず。巖頭、僧堂前(そうどうぜん)に至って掌(たなごころ)を

うって大笑(たいしょう)していわく、且喜(しゃき)すらくは老漢末後の句を

えすることを得たり。他後(たご)天下の人、伊(かれ)をいかんともせじ。

<解釈文>

徳山老師が一日(ある日)もう昼食の時間だと思うので、のこのこ鉢を持って

食堂の方へ下りて来た。すると飯頭(はんじゅう)と言って食堂の係をしていた

雪峰禅師が飯櫃(めしびつ)を覆う布巾をほしていた。まだ食事の合図の

鐘も太鼓も叩かないのに徳山老人が食堂の方へ下りて来るものだから

「この老漢(おいぼれ)、鐘いまだ鳴らず、太鼓もいまだ響かざるに鉢を托(さ)げて

どこへ行く」と雪峰は怒鳴りつけた。すると徳山実に素直にまた自分の方丈に

帰っていった。(方丈と言うのは住持の居室のことである。維摩居士(ゆいまこじ)

の居室が方一丈(ほういちじょう)であったと言う故事から、住持の居室を

大小にかかわらず方丈と言うのである。)若い時の彼はそんな素直な徳山ではなかった。

臨済の喝、徳山の棒と並び称せられたほどの鋭い気性の漢(もの)であったが、

今はその鋭さがとれて人物が円(まる)くなってしまったのである。若い気鋭(きえい)な

者なら「食堂の係の不始末で、こんなに食事が遅れたのではいかぬぢゃないか」と

相手をとがめるところでもあろうが、ただ素直に相手の非難を受けて去って行ったので

ある。ここが尊い。是(ぜ)は何處(いづこ)にありや、不是は何處にありや、

一々(いちいち)気鋭に争っているのが佛道の本義ではない。ところが雪峰には

まだ若輩の気鋭さがある。今日は徳山老師を一本やり込めたぞと、得意になって

巖頭に擧似した。擧似は擧示と同じで、その問題を擧(あ)げて話すことである。

巖頭はそれを聴いて「大小(さすが)の徳山も、まだ末後の句をえせず」と言った。

「末後の句」と言うのは最後の関頭(かんとう)の絶対実在の絶対把握 ー 不死久遠の

真理である。「大小の徳山も老耄(ろうもう)して食事の時間は間違う、怒鳴りつけ

られたらスゴスゴ方丈へ帰って行く、あれでは愈々(いよいよ)臨終の時に

どんな音(ね)が出るだろう」と、まァ弟子達の間で冗談混じりにこう言って

笑ったのである。これでは批評が間違っている。徳山の足下(あしもと)へは

雪峰も巖頭も到底近寄れない。若いものは鋭い攻撃的なのが強くて、円満に

頭を下げている方が負けたのだと思いやすいが、境地が違ったら一層高い者の

心境などうかがい知ることが出来ないのである。

徳山は弟子たちがそんなに自分の心境を誤解しているのだと言うことを知って、

誤解を訂正するのは自分の弁護のためではないが、弟子の心境のために必要である。

他の高きを低しとして軽蔑し、自分の低きを高しとして慢心している限りは

その人の心境は向上しない。そこで弟子の巖頭を呼んで、「汝老僧をうけがわざるか

(お前にはわしの心境が解らないのか)と言った。巖頭禅師は密に(コソコソ耳元で)

自分の心持を言った。どう言ったのか表面にはあらわれていないが、徳山は

「休し去る」とあるから満足して去ったものと見える。

徳山老師は何に満足し去ったのか知らないが、その翌日陞座して講壇にのぼった

ときに、「尋常と同じからず」で常のように説法しない。ただ無言で壇上に

座るとぐうぐう居眠りしてしまった。徳山老師は何を説いていたのであるか。

それは果たして「末後の句」を説いていたのであろうか。『從容録(しょうようろく)』

の第一則に「世尊陞座」と言う公案がある。すなわち

「世尊一日陞座、白槌(びゃくつい)していわく、諦観法王法、法王法如是、

世尊すなわち下座」と書いてある。釈迦がある日説法のために高座にのぼったが、

徳山と同じように何事も説かないでこくりこくり居眠りしている。すると

文殊菩薩が槌(つち)を打って合図をして「法王すなわち釈尊の法は如是 ー 

この通りで御座(ござ)い!」と言った。

すると釈尊はそのまま講壇を降りてしまったと言うのである。徳山の末後の句も

この通りでござい。巖頭禅師は掌(たなぞこ)をうって「老漢末後の句を

得することを得たり、他後(これから)天下の人、伊をいかんともせじ」

(徳山老師に指一本触れることは出来まい)と言って喜んだと言うのである。 ー

いかがでしたでしょうか?

無門関の主人公、無門和尚は、徳山老師は、まだ「無」にとらわれていると

厳しく批評しています。「無門関解釈」の著者、谷口氏も、「佛教が『不説一字』とか

『無字』を説くと言うことにとらわれるくらいなら、何事も説かない方が

佛教なのである。」「ところが本当の佛教は『不説一字』ところか、

一切時一切所に常住説法しているのである。」と、徳山老師の「悟り」が、

十二分に深いものでは無いと評しています。

釈迦は常住説法していたのであり、寝ていても、それが説法になっていたそうです。

う~ん、奥が深いですね~。