谷口雅春著 「無門関解釈」 第十八則を読む
さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、
今回は、第十八則です。
本文の後にわかりやすい解釈文があります。
本文は難解なので、とばして読んでも大丈夫です。
では、
第十八則 「洞山三斤(とうざんさんぎん)」
洞山和尚、ちなみに僧問う、如何(いか)なるか是(こ)れ佛。
山いわく、麻三斤(まさんぎん)。
<解釈文>
この公案は『碧巌録(へきがんろく)』の第十二則にも出ている。
さて洞山和尚にある僧が「佛とは如何なるものであるか」と
聞いたのである。すると、洞山は手近にあった麻の実三斤を
指さして、「これが佛だ」と言ったと言うのである。
洞山の師である雲門和尚は、「如何なるか佛」と問われると、
「乾屎橛(かんしけつ)」と答えた。
乾屎橛とは「くそかき箆(べら)」のことである。
紙の得られない九州の片田舎へ行くと(当時)尻をぬぐうのに
紙の代わりに竹箆で糞をこさげる、あれが乾屎橛である。
「佛って、どんなものだ。」答えて曰く「くそかき箆だ。」
うんこの中にも神がいる。
心の眼を開いて見れば天地間一切の事物ことごとく「佛」ならざるはない。
それには事物の表面の物質相ばかりを見ていては分らぬ。
物質は「生命」を固定面に反射して、その反射像をそのまま
あると錯覚しての相(すがた)であるから「物質あり」と見ている限りは
「くそかき箆」は「くそかき箆」としての値打ちだけしかわからぬ。
それが「佛」だなどとどうしてわかろう。
物質は「生命」を固定面に反映しての映像に過ぎないことを知り、
その「生命」の本質に直接触れることによってのみ、
天地一切のものが「佛」のいのちの顕現であることがわかり、
「神」のいのちの顕現であることがわかり、
天地一切のものに感謝することが出来るようになれるのである。
その境地においては「如何なるか是れ佛?」と問わるれば、
眼の前にあるところの何でもを捉(とら)えて「これが佛だ!」と
一喝し得る。一切が「佛」である。一切が「神」である。
神一元、佛一元の世界観に立って万物を見渡すとき、
一切が佛ならざるはなく、神ならざるはないのである。
洞山は「麻三斤」を指さして「これが佛だ」と言ったが、
「麻三斤」のみが佛であると思ったり、麻三斤の「こと」を
佛であると思ったり、三斤と言う数量に捉えられたりしたのでは
本当のことはわからぬのである。 -
いかがでしたでしょうか?
素朴に、眼の前にあるものが、全て「佛の現成(げんじょう)」と思うことは、
お釈迦様は、これを「常見(じょうけん)」と言って排斥されました。
また、眼の前にあるものが、全て「無」であると思うことも、
お釈迦様は、「断見(だんけん)」と言って排斥されました。
ものの見方は、「常見」にもおちいらず、「断見」にもおちいらない見方。
すなわち、眼の前にあるものは、全て「無」であると悟るのが、
悟りの一半。全て「無」であると「大否定」した後に、全てが「佛の命の現れ」と
「大肯定」するのが、本当の悟りと言います。
「万物は、凡と観れば凡。佛と観れば佛」観る者の主観によって、
観られるものの見方が変わる。
心が変われば、全てが変わります。