谷口雅春著 「無門関解釈」 第十二則を読む
さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、
今回は、第十二則です。
本文の後にわかりやすい解釈文があります。
本文は難解なので、とばして読んでも良いです。
では、
第十二則「巖喚主人(がんくわんしゅじん)」
瑞巖(ずいがん)の彦(げん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、
また自ら応諾(おうだく)す。乃(すなわ)ちいわく、惺惺著(せいせいぢゃく)。
だく。他時異日(たじいじつ)、人の瞞(まん)を受くることなかれ。だくだく。
<解釈文>
瑞巖和尚は毎日自分自身の「内」に向かって「主人公、主人公」と喚び、
「ハイ、ハイ」と言ってこたえていたというのである。そうして又、
「惺惺著(ハッキリ眼を覚ましておれよ)」とこういいつける。
「眼を覚ましていて、他時異日(これからさき)人から瞞着(まんちゃく)
されるなよ。」「だくだく(ハイ、ハイ)」と自問自答していたと言うのである。
これが「言葉の力」と言うものである。禅宗の大家も常にこういうように
言葉の力を利用したものである。
「……称名念佛(しょうみょうねんぶつ)することは一つの行為であるから
行であることに変わりはない。親鸞聖人もこれを『行』と認めているので
ありまして、『大行(だいぎょう)とはすなわち無礙光如来(むげこうにょらい)
の名を称するなり。……しかるにかの大行は大悲(だいひ)の願(がん)より
いでたり』と言っておられるのであります。『南無阿弥陀佛』と称名念佛
すると言うのは、凡夫(ぼんぷ)が念佛しているのかと思ったら、『如来の大悲の願』
が宿って念佛しているのであります。念佛と言うのは凡夫自身が念佛しているのでは
なくて、如来が念佛している。如来が念佛して如来が成佛するのであります。
これがもし、凡夫が念佛して成佛するのでありましたら、凡夫の念佛は
凡夫と言うものの自力である - そう言う自力の念佛では救われようはないし、
他力真宗では極力排斥(きょくりょくはいせき)するところであります。
かくのごとく、我々が念佛するのは如来が念佛するのであります。
(これが本当の「言葉の力」である)だからいくら念佛しても自力ではない。
佛が佛であることを生きている(これが惺惺著 - 目をさましておれよである)
- 佛が佛であることを鳴り響かしている。(これが「人の瞞を受くること
なかれ」 - 「自力に瞞(だま)されてはならぬぞ」である)だからもうすでに
念佛する人は成佛しているのであります。だから『信心(しんじん)よろこぶ
そのひとを、如来とひとしと説き給う。大信心は佛性なり』と親鸞聖人は
お説きになっているのであります。」
喚び出す人、こたえる人、眼を覚ましておれと言う人、
人に瞞されるなよと言う人 - などと言う沢山の傀儡(かいらい)をならべて
いるが、そんな傀儡の一つ一つが別々に存在すると思ったり、
その一つ一つの言葉の力を自力のはからいの力で自分は悟るのだと
思い上がったらまちがいである。自力などと言うものはどこにもない。
「わしが、わしが」と思っているとまっさかまに地獄におちる。
喚び出すものも佛の本願力(ほんがんりき)の回向(えこう)であり、
喚び出されるものも佛性そのものである。それを知らずに、
自力で形ばかりを真似ていたら野狐禅(やこぜん)に堕(だ)するぞ。
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いかがでしたでしょうか?「声字即実相(しょうじそくじっそう)」ですが、
形だけの力んだ念佛(念仏)は、いけないようです。