8まってる

私が、今、ハマっているものを、紹介いたします。

谷口雅春著 「無門関解釈」 第十一則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、

今回は、第十一則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、とばして読んでもOKです。

では、

第十一則 「州勘庵主(しゅうかんあんじゅ)」

趙州(じょうしゅう)一庵主(いちあんじゅ)のところにいたって問う、

有りや有りや。主(しゅ)、拳頭(けんとう)を堅起(じゅき)す。州いわく、

水浅うしてこれ舡(ふね)を泊(はく)するところにあらず、すなわち行く。

又一庵主のところに至っていわく、有りや有りや。主もまた拳頭を堅起す。

州いわく、能緃能奪(のうしょうのうだつ)、能殺能活(のうさつのうかつ)、

すなわち作禮(さらい)す。

<解釈文>

趙州和尚は第一則の「趙州狗子(じょうしゅうくし)」の公案に出て来た

趙州和尚である。趙州和尚は八十歳の時まで行脚(あんぎゃ)して禅機(ぜんき)を

磨いた。禅の修行は剣の修行のようなものであって段違いで問答無用とわかったら

サッサと突き出してしまうか、サッサと引き上げてしまうものであったことが

本則でうかがわれる。

「州勘庵主」(州庵主を勘す)というのは趙州がある寺を訪れていって、

その庵主のさとりの程度を勘破(かんぱ)したということである。

「勘」というのは、「勘察(かんさつ)する」「勘(かんが)える」「考察する」等の

意味を持っている語で、庵主の力量の程度を勘破したことである。

 さて、趙州は例のごとく行脚してある寺に行き着いた。

そして「頼もう」と呼びかけて、出て来た庵主にいきなり「有りや、有りや」と

言って問答を始めたのである。すると、その庵主もさる者、拳を握って

上向きに突き出したというのが「主、拳頭を堅起す」である。

「有ると言うのは握っていることだ」という意味であったろうと思う。

握らなければ何もない。本来空々寂々(ほんらいくうくうじゃくじゃく)、

何の有るものもないということを動作に示したものと見ることが出来る。

一寸見ると、それで公案は解決している。

ところが趙州和尚は「何ぢゃ、その悟りの浅いことは、水が浅くて

港に船が着くことが出来ないようなものだ」と言ってサッサと引き上げて

行ってしまったのである。そして又次の寺へ行くと、趙州は前と同じように

「有りや、有りや」と呼びかけたのである。すると今度の寺の主人もやはり

「拳頭を堅起す」ー で拳固(げんこ)を握って上向けて見せたのである。

しかしその拳固は前のお寺の僧とはちがっていた。同じ握った拳(こぶし)でも

形は同じでも内容がちがうことが勘破されたのである。その動作を見たときに

趙州は「能緃能奪、能殺能活」と言ってほめて禮(れい)をなしたというのである。

二庵主が同じく拳を堅起したのは、二庵主の力ではなく、趙州の心境が

呼び起こした心のリフレクション(反影《はんえい》)である。

そうすると、二庵主に差があるのは、趙州自身の標準による優劣の批判では

なく、前庵主はそういう無礼な取り扱いを受け、後庵主はそういう丁重な

取り扱いを受けるだけの心があったのだとしなければならぬ。

趙州の心は庵主の動作に現れており、庵主の心は趙州の動作に現れているのである。

「有りや、有りや」と趙州が問いかけた時に、前庵主も後庵主も拳を堅起して

「有るというのは握っていることだ」と拳を握って示したところまでは、

趙州の心の反影である。「握らなければ本来空、どこにも引っかかるところがない」

と、前庵主が「心」で答えたであろうことの反影が

「水浅うして舡を入るるに足らず」と言ってサッサと引き下がった趙州のこたえに

現れているのである。

「握らなければ本来空、どこにも引っかかるところがない」ならば、それは

「水浅うして舡を入るるに足らぬ」ではないか。港に舡が入るには水がなければ

ならぬ。船が入港するのは水というものに船底が引っかかっているからこそ

出来ることであって、「握らなければ本来空」などと言っていると、その「空」

なるものに引っかかって港に入港することも出来ねば、港から船員が航海中に

必要なる飲食物をも積み込むことも出来ぬ。「空仏教」に引っかかると

人生の意義がなくなってしまう。

「有りや、有りや」とたずねるような相手には「ここに有る」と言って

「生命」を直指(じきし)して示さねばならぬ。

「空の仏教」は『般若経』までである。華厳、法華、涅槃になると「実(じつ)の仏教」

になっている。

後庵主が能殺能活であるのは、その拳頭堅起によって、

「ここに汝の求むる久遠不滅の生命あり」と直指したところにあるのである。ー

いかがでしたでしょうか?「空」にもとらわれてはならぬ。

しかし、全く執着の無い世界には、「生まれる」ということも、「死ぬ」と

いうこともありません。ということは、「創造」が無いということでもあります。

現象世界に住む我々は、何事かを表現し、創造しなければ、気がすみません。

どうすればよいか?それは、

「執着しても執着しなくても執着しない心持ち」という心境に達することです。

一見矛盾する事柄を受け入れる考え方を、「不二法門」と言います。

これが体得できれば、悟ったと言えるでしょう。