谷口雅春著 「無門関解釈」 第十則を読む
さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、「無門関解釈」の紹介、
今回は、第十則です。
本文の後にわかりやすい解釈文があります。
本文は難解なので、とばして呼んでも良いです。
では、
第十則 「淸税孤貧(せいぜいこひん)」
曹山和尚(そうざんおしょう)、ちなみに僧問うていわく、淸税孤貧、こふ師
脤濟(しんさい)したまえ。山(さん)いわく、税闍梨(ぜいじゃり)と。
税、應諾(おうだく)す。山いわく、靑原白家(せいげんはくか)の酒、
三盞喫(さんさんきつ)おわってなおいう未(いま)だ唇(した)をうるおさずと。
<解釈文>
曹山和尚は年少(としわか)うして儒(じゅ)を学び、十九歳にして出家し、
唐の咸通(かんつう)の初め禅宗の盛んなる時、
洞山良价禅師(とうざんりょうかいぜんじ)の教えを受け法を嗣(つ)いだ。
曹山本寂禅師(そうざんほんじゃくぜんじ)と洞山良价禅師の
頭文字を重ねて出来上がったものであるというほどの曹山和尚である。
さてある日、曹山和尚のところへ、一人の僧がやって来て、
「私は淸税というものでございます。まことに孤独で寄る辺(よるべ)なく
貧しきものでございます。どうか私を恵み救って下さいませ」と言った。
貧しいというのもただ経済的に貧乏なというわけではない。
また僧淸税はただ恵んでもらうために乞食(こつじき)に来たのではない。
禅僧が禅僧を訪ねて問答するのは悟りと悟りとの相打つところの一種の
真剣勝負である。孤貧であるというのは、「孤」とは頼るべき何物もないこと
ーすなわち何物にも依(よ)っていないことであり、「貧」とは何物をも
握っていないことをあらわしている。
「私は何物にも依っていません。私は何物をも握っていません。
この心境はどうぢゃ」と淸税は曹山に挑みかかったのである。
そこで曹山は「税闍梨!」と呼びかけた。闍梨というのは、
阿闍梨(あじゃり)の略で僧侶に対する尊敬の言葉である。「税闍梨!」と
呼びかけたのは「淸税先生!」と呼び掛けたと思えば宜(よろ)しい。
すると、「うむ……」と淸税は應諾したのである。
「淸税は孤貧である、何にも頼っていない、何も持っていない、
これでどうぢゃ」と呼び掛けたその舌の根も乾かぬうちに、もう彼は
「淸税先生」に成り上がってしまったのである。もう彼は「先生」なる
名称を持ち、「先生」なる名称に頼っているのである。
そこで曹山は、「靑原白家の酒、三盞喫おわってなおいう未だ唇をうるおさず」
(白氏醸造《はくしじょうぞう》の靑原《せいげん》の名酒をたんまり飲んで
置きながら、唇に一滴の酒もうるおさなかったような白《しら》ばくれようは
何ぢゃ)と一喝をくらわしたというのである。ー
執着を離れたと、油断していると、実は、別のものに執着している。
「とらわれない、とらわれないということにもとらわれない」
ことが、大事ですね。