8まってる

私が、今、ハマっているものを、紹介いたします。

谷口雅春著 「無門関解釈」を読む 第二則

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、今回は、

第二則です。

本文の後に、分かりやすく書いた解釈文があります。

本文は、難解なので、とばしても大丈夫です。

第二則「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」

百丈和尚、およそ参のついで、一老人あって、常に衆にしたがって法を聴く。

衆人しりぞけば老人もまた退く。たちまち一日しりぞかず。師ついに問う。

「面前に立つ者はまたこれ何人ぞ。」老人いわく、「諾(だく)、それがしは

非人なり、過去迦葉佛(かしょうぶつ)の時において、かつてこの山に住す。

ちなみに学人問う、『大修行底(だいしゅぎょうてい)の人、かえって

因果に落つるやまた無しや。』それがしこたえていわく、『不落因果』と。

五百生野狐身に堕す、今こふ和尚、一転語を代わって、こいねがうらくは

野狐を脱せしめよ」と。ついに問う、「大修行底の人、かえって因果に

落つるやまた無しや。」師いわく、「不昧因果(ふまいいんが)」と。

老人言下において大悟す。作禮(さらい)していわく、「それがしすでに野狐身を

脱して山後(さんご)に住在せん、あえて和尚に告ぐ、こふ亡僧の事例によれ。」

師、いのをしてびゃくついして衆に告げしむ、食後に亡僧を送らんと。

大衆言議す、一衆皆やすし、涅槃堂にまた人の病むなし、何がゆえぞかくのごとく

なる。食後にただ師の衆をりょうじて、山後のがんかに至って杖を以って一死

野狐を挑出(ちょうしゅつ)して、すなわち火葬によるを見る。師、くれに至って

上堂、前の因縁をこす。黄檗(おうばく)すなわち問う、「古人誤って一転語を

したいして、五百生野狐身に堕すと。転々誤らずんば、まさにこのなにとか

なるべき」師いわく、「近前来、かれのためにいわん」黄檗ついに近前して

師に一掌(いっしょう)をあたう。師、手をうって笑っていわく、

「まさにおもえり、胡鬚赤(こしゅしゃく)と、さらに赤鬚胡あり。」

< 解釈 >

百丈和尚は、大雄山に請(しょう)ぜられて法を説いた有名な人だ。

そんな百丈和尚の道場のことであるから、毎日沢山の修行者が集まって

座禅し、説法を聴いて修行していた。その大勢の中に混じって一老人が

毎日黙って修行している、大勢が去るとその老人も去るのであった。

ところが、ある日、他の修行者が道場の時間が終わって退出してしまっても

その老人ひとりじっと百丈和尚の面前に座っていて去らないのである。何か

もの言いたげな表情である。そこで百丈は「我が面前に座っている者は、

一体これ何であるか」とたづねた。するとその老人は「ハイ、私は人間では

ありません。前には人間でありました。今は変化身であります。・・・うんぬん」

と答えた。

さて、この百丈禅師を今百丈と称し、「私は人間ではありません。変化身で

あります」と言った老人を前百丈と呼ぶことにする。前百丈が続いて答えて

言うのに、「過去迦葉佛のとき私はこの百丈山に住んでおって、貴方のように

説法していたのでございます。ところがその説法を聴聞していた修学の者の

一人が『大修行底の人でも因果の理法の中にあるものでしょうか。それとも

又因果の理法の外に超出しているものでしょうか』と質問しましたから

私は『大修行底の人は因果の理法の外に超出している者だ』と答えましたが、

その答えが間違っていましたので、私は五百生の間野狐の身に堕ちて、人間として

浮かび上がることが出来ません。どうぞ私がそれと同じ質問を致しますから、

それに対して私をして心機一転せしむる一転語を与えて、この野狐の身から

脱して元の人間に帰ることが出来るようにして下さい」と言ってから、再び

「大修行底の人かえって因果に落つるやまた無しや」と言う質問を繰り返した。

すると今百丈は「不昧因果」とやった。と言う意味は、因果の大法はくらますことが

出来ない、いくら大修行底の人であっても、因果の大法を無視することは出来ないと

言ったのである。すると、野狐身に堕落していた老人は、この一言に大いに悟って

お辞儀をして、「和尚の有難い一転語のお陰で野狐身を脱却して本当の人間に

戻ることが出来ました。その野狐の身体を脱ぎ去ることが出来ましたが、その死骸が

山の後方にまだ残っておりますから、どうか死んだ僧侶をとむらう儀式によって

とむらいをして下さい」と言ったので、いのと言う当番僧をして、びゃくつい

(槌で板を打って合図をし、修行僧たちを呼び集める方法である)して大衆を呼び集めて

「死んだ僧があるから皆で葬式だ」と言う。大衆は、「誰も死んだものはなし

妙だな、涅槃堂におこもりしていた人にも誰も病人はなかったが、一体誰が死んだの

だろう」と口々にぶつぶつ言議している。そこで昼食後、百丈和尚が大衆を

引き連れて、ある岩の下に降りて行き、杖で一頭の野狐の屍をはね出して、

「そら、こんな所に野狐の皮袋が転がっているから火葬にふそう」と火をつけて

燃やしてしまった。そしてその晩、百丈和尚は禅堂に上って前記の由来因縁を話したと

言うのである。

釈迦が涅槃に入ろうとしたときに、その弟子の迦葉が、「先生、あなたのように

大勢の人を救ってこられて善根功徳を積んで来られた人でも死ぬんですか」と言って

嘆いたということである。「あなたのように善根功徳を積んで来られた人」と言うのは

「大修行底の人」である。そして「あなたでも死ぬんですか」と言うのは

「因果に落つるのですか」と言うことである。

釈迦は「涅槃経」においてこの回答を与えている。「法華経」の中でもこの回答を

与えている。

前百丈が五百生野狐身に堕して、その野狐身を脱することが出来なかったのは、

「不落因果」と答えたためではない。瓦を磨いて宝石になるかと言うにも等しい

愚問に対して、大修行がどうのこうのと問題にしているところにある。そんな

悟りの程度では「不昧因果」と答えたところがやはり野狐身に堕するであろう。

答えは渾心(こんしん)の悟りから出てこなければならない。狗子佛性の公案

趙州はある人には「有」と答え、ある人には「無」と答えている。

不落と言っても不昧と言っても、悟った人なら、どちらを答えて見ても正しいが、

悟らぬ人なら、どちらを答えても間違いだ。

黄檗禅師が、百丈和尚の俊秀としてその話を聴いていて尋ねた。

「前百丈は『不落因果』と間違って答えたのが原因で、五百生野狐になった

と言いますが、そして先生が『因果くらまさず』と言ってやったら野狐身を

脱したと言いますが、それでは不合理でありませんか。因果に落ちないので

あればこそ、因果を脱して野狐身を逃れることが出来るのでしょう。因果

くらまさずであるならば前に野狐に生まれる原因になった因は、どこどこまでも

くらまさずに続いて行くべきである。そうして転々と因果をくらまさずして

間違わずに続いて行くならば、やがてどうなりますか。」中々鋭い質問である。

やがて、その門下に、臨済をだした程の黄檗であるから、その鋭鋒当たるべからず

の概がある。百丈は、「近前来(もっと近う進め)、お前に言うてやることがある」

と言った。黄檗は、百丈和尚に近寄りざま、「先生、この面(つら)は?」と

手をあてた。すると、百丈和尚手を打って、「えびすの髭は赤いとも言うが、

赤髭のえびすもある」と言って、呵々大笑したと言うのである。

「胡鬚赤」と言っても、「赤鬚胡」と文字を逆にして言っても、どうせ同じことだ。

不落因果、不昧因果、文字かわれども、迷う者は、どう言っても迷って行くし、

迷わぬ者はどう言っても迷わぬのだ。 ―

 

いかがでしたでしょうか?「悟ること」の大事さ。

私も実感してゆきたいと思います。