谷口雅春著 「無門関解釈」を読む 第一則
今回は、禅宗第一の書、「無門関」の解釈本です。
第一則~第四十八則まで、あります。
読み応え十分の書なので、一則ずつ紹介したいと思います。
一則で、悟れる人は、悟れます。
では、早速、
第一則「趙州狗子(ジョウシュウクシ)」
『趙州和尚、ちなみに僧問う、狗子にかえって佛性ありや
また無や。州いわく、「無」。』
さて、ある僧が「いぬころに佛性があるか無いか」と趙州和尚に
問うたところが、趙州和尚は「無」と答えたというのである。
その趙州和尚は何故「無」と答えたのか考えて見よというのが
第一則の公案である。
色々の意味にこの「無」がとれるのであって、そこに求法者の
悟りの深さが千差万別してあらわれるのである。ある人の解釈が
「浅い」と思ってわらっていると、猿の尻笑いになることもないでもない。
言葉の表現では「浅い」「深い」などとみだりに評することは
出来ないのである。
そこで「参禅はすべからく祖師の関をとおるべし」と無門慧開和尚は
一喝したのである。祖師というのは先輩の僧侶だと思っている人もあるらしいが、
先輩の僧侶ではない。だから「まくねんとして打発せば天を驚かし地を動ぜん。
関将軍の大刀を奪い得て手にいるが如く、佛に会うては佛を殺し、
祖に会うては祖を殺し」といっているのである。師につくことが「祖師の関を
とおる」ことであるならば、禅門の万僧ことごとく悟っているべきはずで
あるが、衣鉢を伝えられると称する悟りの境に達した者は、ごくわずかな
数に過ぎない。「祖師の関」とは「真理」の関所である。真理こそ唯一の祖師で
あって、そのほかの「祖師」はことごとく偽りの祖師に過ぎない。そこで
「祖に会うては祖を殺す」といって真理を無(な)みし、師恩を無みし、旧師の
悪口をいって、「自分」のみ鼻高々として自己吹聴する者があるならば、
彼はまだ祖師を殺していない ー 自分を「祖師」としているのであって、
祖師の殺し方が足りないのである。「自分を祖師とすること」さえも
殺さなければならない。 - これが否定の妙用である。
「狗子に佛性ありや?」は、やがて又、「人に祖師ありや?」の公案にも通ずる。
「僧問う - 人に祖師ありや?州いわく、無」と書き直しても
よいであろう。これは祖師だけを否定したのではない。師なんてないものだ!
こう否定して鼻高々となったときいつの間にか自分が「師」に
なっている。人もない。祖師もない。祖師もないという者もない。
どこまでも否定はその極の極まで進まなくてはならない。
そこで「妙悟(みょうご)は心路(しんろ)をきわめて絶せんことを要す」である。
心路を絶してギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極実在
に達する。そうしてただ真理のみあることがわかる。光明一元である。
そうわかって見れば、万物祖師ならざるはない。そのまま、師を師とし、
感謝の心わき出で、報恩の行(ぎょう)おのずからととのうのである。
いかがでしたでしょうか?全てを否定し、否定することまで否定しきった時、
どうしても否定することのできない「実在」に達する。それを「悟り」と
いうそうです。