8まってる

私が、今、ハマっているものを、紹介いたします。

谷口雅春著 「無門関解釈」 第九則を読む

さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、

第八則を、とばして、

今回は、第九則です。

本文の後にわかりやすい解釈文があります。

本文は難解なので、スルーしても大丈夫です。

では、 

第九則 「大通智勝(だいつうちしょう)」

興陽(こうよう)の譲(じょう)和尚、ちなみに僧問ふ、

大通智勝佛(だいつうちしょうぶつ)、十劫(じゅっこう)道場に座(ざ)して、

佛法現前(ぶっぽうげんぜん)せず、佛道(ぶつどう)を成(じょう)ずるを得ざる時

如何(いか)ん。譲曰(いわ)く、その問(とい)はなはだ諦富(たいとう)なり。

僧いわく、すでにこれ道場に座す、なにとしてか、佛道を成ずることを得ざる。

譲曰く、伊(かれ)が成佛(じょうぶつ)せざるが為(ため)なり。

<解釈文>

譲和尚は、蘇州(そしゅう)興陽山(こうようざん)の淸譲和尚(しょうじょうおしょう)

のことであって、詳しい伝記は不明である。

ある時、この譲和尚に一人の僧侶が『法華経』の化城喩品(けじょうゆほん)にある

大通智勝佛が十劫の間道場に座っていたけれども成佛しなかったという一節を

提(ひっさ)げ来たってその解決を求めたのである。

(『劫』とは、簡単に言えば、この地上の世界が生まれて又滅するまでの

一周期です。十劫とは、その十倍です。)

無量無辺百千万億阿僧祇劫(むりょうむへんひゃくせんまんおくあそうぎこう)

という形容をつくしてさえも尚足りない程に久遠(くおん)なる昔より

存在し給う佛様ともあるものが、しかもそれは大通力(だいつうりき)

すなわち全能、智勝すなわち全智でありながら、十劫の歳月を道場に

座っていて成佛しなかったとあるが、成佛しなかったならばどうなるのであるか

という質問である。

この質問は回答するのにはなはだ難しいようであるが、質問が質問のために

なされているのであるから、質問しなければならない絶体絶命の力がない。

それは仮定の上に立って、「もしこうであるならば……どうしましょう」と

いうような閑人(かんじん)の閑質問に過ぎないのである。

だから譲和尚は「諦富(わかりきったこと)」と答えたのだ。

仮定は、如何に巧妙に提出せられても仮定だけの力しかない。

禅堂に座して幾百の公案を解決し得ても、実際生活上の板挟みに処しては

これを解決し得ぬ。それは床上(しょうじょう)の水練に過ぎぬ。

すでに佛は佛であり成佛しているのに、成佛しなかった場合どうなるかと

いう問いに対しては、「諦富(わかりきったこと)さ」と答えるほかはない。

この「諦富(わかりきったこと)」が解らぬ人が多いから困るのである。

すでに人間は本来佛であり、迷うことなきものであるのに、幾十年人生に処して

尚迷っていると思っている人間があるのはどうすべきかというのは、譲和尚に

「佛道を成ずるを得ざる時如何」と尋ねかけたのと同じである。

こちらが迷っていると思って観るから迷っているが如く見えるに過ぎないのである。

「もし」の観念を以って人に立ち向かうときには、その人の本来の姿は見えていない。

こちらの先入観念の投影であると悟ってこちらがそういう観念を投げ棄てて、

本来佛なる相手の姿を観るようにすれば、その本来の姿のみが現れて来るはずである。

第一の問いが解決するならば第二の問いも自ずから解決すべきはずである。

「すでにこれ道場に座す、なにとしてか、佛道を成ずることを得ざる。」

「伊が成佛せざるが為なり。」

漢字に表現されたるこの公案の解決はすこぶる妙を得ているのである。

大通智勝如来を久遠劫前(くおんごうぜん)に存在したと架空的に考えられたる

佛と観てはならない。大通智勝如来とは自分であり、自分の父であり、

母であり、夫であり、妻であり、子であり、目下の人であり、その他すべての

佛性やどれる衆生一切を大通智勝如来の顕現(けんげん)と見るべきである。

それら無数の大通智勝如来が成佛せずして迷っていたり、不都合の状態を

表しているのは、なにゆえであるかというと、「伊(かれ・われ)が成佛

せざるが為なり」であるのである。漢字の「伊(かれ)」は「彼(かれ)」と読み、

「是(これ)」と読み、「我(われ)」と読む。伊(かれ)と我(われ)とは自他一体

なのである。伊(かれ)が成佛せざるは我(われ)が成佛せざるにほかならない。

彼はすでに佛であるのに、それを佛として拝み得ない迷雲(めいうん)の反映でしか

ないのである。--

いかがでしたでしょうか?「凡と見れば凡。佛(仏)と見れば佛(仏)。」

釈尊の前世と言われる「常不軽菩薩」のように、万人を佛(仏)として

拝めるでしょうか?