8まってる

私が、今、ハマっているものを、紹介いたします。

「論語」を読む

いよいよ論語です。

論語は、日本の様々な人たちに影響を与えてきました。

論語からの出典の言葉は、誰でも一度は、耳にしたことがあるものばかりだと

思います。

まず、有名どころから、

「子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。

五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に

従って、矩を踰えず。」

よく、「私は、四十にして、惑ってばかり」という声を聞きますが、

人格向上の目標として、孔子の言葉をとらえるといいのかも知れません。

特に、「心の欲する所に従って、矩を踰えず」というのは、つまり、

「思うままにふるまってそれで道をはずれないようになった」ということですが、

これは、人格の最高到達点の一つであり、深い悟りの境地でもあります。

以前にこのブログで、儒教は、エリートの道徳であるという話を書きましたが、

エリートではなくとも、守れる教えは、儒教には、沢山あります。

さて、我々日本人にとって、論語に違和感を感じる部分は、

「君子」と、「小人」とを差別した記述ではないでしょうか。

しかし、これは、当時の為政者が、非為政者に比べて、高度な教育を受け、

その差が激しかった時代なので、仕方がないといえると思います。

次の言葉は、「君子」と「小人」との違いを、見事に言い表した言葉なので、

紹介したいと思います。

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」

これは、「君子は協調性に富むが、やたらと妥協しない。

小人は徒党は組むが、協調するまではいかない」というような意味です。

「協調」と「雷同」との違い。気を付けたいものです。

次の言葉は、「正直者」とは何か?について考えさせられる言葉です。

「葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり。

其の父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証す。孔子の曰わく、吾が党の直き者は

是れに異なり。父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す。直きこと

其の中に在り。」

訳すと、

「葉公が孔子に話した、『わたしどもの村には正直者の躬という男がいて、

自分の父親が羊をごまかしたときに、むすこがそれを知らせました。』

孔子はいわれた、『わたしどもの村の正直者はそれとは違います。

父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはそこに自然に

そなわるものですよ』」という意味です。

「正直者」というのは、何に対して「正直」なのか、何でもあったことを、

しゃべることが「正直」なの孔子は、自分の良心に「正直」で

ある人が、「正直者」であると言っています。

このような人生の奥深い知恵のこもった一冊。いかがですか?