続 守屋洋著 「老子・荘子」を読む
さて、前回では、書ききれなかったこの本の魅力を、今回も紹介したいと思います。
守屋氏は、孔子が「正調」であれば、老・荘は、「破格」なかでも、荘子は、
型破りだとしています。
私は、「道」の話が好きなので、老・荘が、「破格」であると言われても、
余り、ピンとこなかったのですが、孔子も、老子も、荘子も、同じくらい道を究めた
人だと思っています。(老・荘の話には、孔子を格下だと見る話が幾つかありますが)
前回は、老子をピックアップしたので、今回は、荘子の中でも、私が一番印象に
残っている話を、紹介します。
それは、「荘周、夢に胡蝶となる」という説話です。
荘子は、ある日、夢を見ました。一匹の蝶となって、ヒラヒラと空を飛んでいます。
思うままに飛んで、自分が荘周であることも忘れていました。
しかし、突然、目が覚め、ここにいるのは、私自身。
蝶になった夢を見ている荘周か。荘周になった夢を見ている蝶か。
夢と現実との区別はあるのかとの問いです。
織田信長の好きな「敦盛」の一説に、「人間五十年 下天のうちをくらぶれば
夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきや」という歌詞がありますが、
さすがに、信長は、「諸行無常」という真理の一端を、悟っていたのでしょう。
今、私たちの環境は、「夢」か「現実」か。「夢」であると捉えるからこそ、
考えられる大胆な戦略。こういったアプローチも、面白いかもしれません。