谷口雅春著 「無門関解釈」 第五則を読む
さて、禅宗第一の書「無門関」の解釈本、
第四則は、分かりにくいので、パスして、
今回は、第五則です。
この公案は、有名なので、知ってらっしゃる方もいるのではないかと思います。
本文の後にわかりやすい解釈文があります。
本文は難解なので、とばして読んでも大丈夫です。
では、
第五則 「香嚴上樹(きょうげんじょうじゅ)」
香嚴和尚いわく「人の樹(じゅ)にのぼるがごとく、口に樹枝(じゅし)をふくみ、
手に枝をよじず、脚に樹をふまず。樹下(じゅげ)に人あって西来意(さいらいい)
を問わんに、こたえずんばすなわち他の所問(しょもん)にそむく。もしこたえなば
又そうしん失命(しつみょう)せん。しょういんもの時、そもさんかこたえん。」
<解釈文>
さて、香嚴和尚はいうのだ。「口に樹の枝をふくみ、手は枝を握っていない。
脚は樹をふんでいない。まったく口の力で空中からせんじんの断崖上に
ぶら下がっているのだ。その時、樹の下に『祖師西来の意如何(そしさいらいの
いいかん)』と問う人があったらどうするか。こたえなければ禅家の礼儀を
やぶることになる。もし口を開いてこたえれば身はせんじんの谷底に墜落して
木端微塵(こっぱみじん)となって命を失う。まさしくこんなときどんなに
処置したらよいか。」
もし、弁をふるえば、せんじんの谷底に墜落して喪身失命(そうしんしつみょう)
する。答え得ずんば禅家の面目なんぞあらん。進退両難である。
しりぞけば道の死であり、礼の死であり、義の死である。
義を見てせざるは勇無きなりというので、進めば墜落と肉体死と生命の死とが
待ち構えている。いずれをとるも死である。さてどうするか。
おおむねこういう両刀論法、進退両難を解決する道は、両刀論法は無い、
進退両難は無い、本来大調和、このまま寂光土(じゃっこうど)なる実相を
把握するにある。
本来寂光土、本来大調和の世界を把握しない限り、心の中にある進退両難、
矛盾撞著(むじゅんどうちゃく)の世界を克服しない限り、ひとつの進退両難を
克服し得ても、次の矛盾撞著はこもごも来たり、結局は収拾するところを
知らずという状態になるのである。なぜなら、外界の進退両難は、心の世界の
進退両難の反映でしかないからである。
この公案は、馬鹿々々しい。なにゆえこの公案が馬鹿々々しいものであるか
というと、机上の閑空想(きじょうのかんくうそう)の葛藤であるからである。
葛藤本来なく、進退両難本来なしであるのに、わざとわが心で葛藤を作り、
進退両難をつくっているからである。
吾々はいつでも進退両難の窮境(きゅうきょう)から脱却することが出来るのだ。
なぜなら、進退両難の窮境は実相においては無いものであって、唯空想の
中にのみ存するものに過ぎないからである。 ー
いかがでしたでしょうか?進退両難は、空想である。「いざ」となったら、
「命」が何とかしてくれる。この命にゆだねる習慣、身につけたいものです。